短編

□カノン・ジムノペディ
2ページ/6ページ

私が部屋に一緒に入ったことに気づいているのかいないのか、アキちゃんは何の反応も示さない。一言も発さないままスクールバッグを床に放りなげて、自分はそのままベッドにダイブした。まるで自分の身体も放りだしたみたいだとつい思ってしまった。一方哀れなスクールバッグは、色々なものがごちゃ混ぜになったような音をたてながらスライディング。壁に衝突してやっと止まった。この間お母さんが家中にかけたワックスの効果は絶大だ。この滑りの良さには流石に多少驚いたと見えて、アキちゃんは一瞬顔を上げて壁に激突した自分の鞄に何ともいえない視線を送ったけれど、またすぐに、興味を失ったのか、俯いてしまった。その動きから、私は何か声をかけた方がいいものかしらと少し考えてみたけれど、すっかり傷心した様子のアキちゃんを見ていると、何だか声をかけない方がいいような気がしてきた。というより、いつも声をかけずにずっと待ってきたのだ。アキちゃんが自分から話し始めてくれるのを。だから何も言わずに私はアキちゃんの椅子に腰掛けてじっと待つことにした。焦っては駄目。
アキちゃんは制服を脱ごうともせず、俯いてベッドに横たわっていた。ああ、あの様子じゃあ、きっと制服はしわしわになってしまうわね。そう思うとお母さんの困った顔がぼんやり脳裏に浮かんでくる。お母さんのためにも、今注意したいけれど、そこはぐっと我慢する。くぐもった啜り泣きがひっきりなしに聞こえてきて、私の鼓膜を落ちつかなげに震わせる。アキちゃんが話しかけてくれるまで、無力な私はここにじっとしているしかない。それにしても、ここまで落ち込んでいるアキちゃんを見るのは随分久しぶりだ。もしかしたら、中学校に入学して以来一番ひどい状態ではないだろうか。
アキちゃんのつらそうな様子を見るのは、当たり前のことだけどいつだって快くないものだ。とても長い時間を要したけれど、漸く人間に対する恐怖心を乗り越え、今ではこのごみごみと人が密集して暮らしている息苦しい都会で友達も数人できた。あの涼やかで空気の澄んだ、人気のない故郷に想いを馳せてぼんやりしていることも少なくなった。落ち込むことは時折あっても、アキちゃんの友だちになってくれた子たちは皆いい子たちばかりで観察力に優れているため、アキちゃんの性格をよく見抜いてくれている。この子から無理に聞き出そうとせず、黙ってアキちゃんの傍にいて、アキちゃんが話しだすのをいつだってじっと待っていてくれる。私はその様子を見て、最近になってやっと安心できたのだ。ああ、ついにアキちゃんも人間社会に溶け込めるようになってきた。これで私も安心してのんびり過ごすことができる、って。
そう思った矢先のこのアキちゃんの様子。友だちが傍にいるときの落ち込みぶりとはまた訳が違う。これはお母さんか私にしか持ちこたえられないレベルだ。普通の人が、この状態のアキちゃんの傍になんか近寄れば、一瞬で「やられて」しまうだろう、そんなレベル。「やられる」とはつまり、アキちゃんのこの暗い気分が「伝染」してしまう、ということ。

普通の人でも、暗い気分でいると周りの人間にその気分を少なからずうつしてしまうことがある。でも、私の愛するアキちゃんの場合は「ことがある」どころじゃない。アキちゃんの「感染力」は半端ないのだ。ほぼ確実に、傍にいる人間にそのときの気分を「うつして」しまう。それが、神様から贈られたアキちゃんの不思議な「体質」。明るい気分のときは周りの人間もすごく明るい気分になってくるし、暗い気分のときは、周りの人間も引きずられて気持ちが暗く沈んでくる。その想いが強ければ強いほど、「感染力」は強くなる。それが、アキちゃんの特性。かつアキちゃんのコンプレックス。私やお母さんみたいに、多少免疫のある者でも、時折引きずり込まれてしまうほど強力なウイルスを、この華奢な身体が生み出している。そんなこと、今でも信じられない、というか信じたくないときがある。でも、これは事実。目を背けようとしても、変えられない、受け入れるしかない事実なのだ。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ