短編

□不思議生物理論
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 どれくらい眠ったのだろう。
 眠ったとはいっても、それ程深い眠りではなかった。半分眠って半分起きているような状態だったから、私が睡魔に降参してからそれ程長い時間は経っていなかっただろう。
 ふと、声が聞こえた気がした。そのときの私は暗闇のなかにぺったりと座りこんで俯いていた。何だかとても不安で嫌な気分だった。そんな気分になっていたのは多分風邪のせいだけではないと思うけれど、他に原因も思いつかなかった。ただ完全に夢の世界に浸っているのではなく、現実世界に非常に近い、中途半端な夢のなかで私は得体の知れぬ不安と不機嫌とをもてあましていた。
そんなときに、どこからともなく聞こえてきた声。いや、「聴こえる」といった方が正しいのかもしれない。とにかく、空気を震わせて私の鼓膜を通じて「音」として認識される類の声ではなかった。そうではなくて、何も媒介を必要とせず直接私のうちに入り込んでくる「声」。そんな「声」が突然届いたもんだから、夢のなかで私は驚いて顔を上げた。
具体的にその「声」が何と言ったのかは分からなかった。でも、少なくともその「声」が私に向けられたものだということだけは確かだった。
私は「耳」を澄ませて、待った。もう一度私に語りかけられるのを。「声」はもう一度私に語りかけるだろうということを私は確信していた。
 そしてその確信は当たっていた。長く待つ必要はなかった。でも、私の確信とは違った形で声は届いた。今度は、耳から聞こえたのだった。
 またもや驚いて、今度は夢から覚めるほどだった。そしてそのままの勢いではっと顔をあげると、目の前に、その声の主と思われる存在が、いた。
 透き通った、一対の琥珀色の瞳が私を見つめていた。ぴんと尖った三角の耳、同じ表現になってしまうけれど先の尖った鼻、いかにも触ると心地よさそうな、純白の体毛に尻尾の先まで覆われた大きな体躯。すらりと伸びた四本の足、足の先には鋭い爪。
 外見は、犬ではなくてまさに狼。犬といってもなんとか通すことができなくもなさそうだけれど、平均的なグレート・ピレニーズより僅かに大きい体格や、鋭い爪やら鼻先が威圧的な雰囲気をかもし出している。それでも私が、熱に加えて寝起きという頭のはたらかない状態で直面しているとはいえ、全く恐怖を感じたりしないのは…恐らく私が「不思議生物」に会うことにすっかり慣れているというだけではなくて、この琥珀色をした双眼が、あまりにも穏やかで優しい色に満ちていて、見る者に安心感を与えてくれるからだと思う。不思議で暖かい瞳に惹かれて、私はまじまじと目の前の美しい狼のような存在を見つめた。狼もまた、私をじっと見つめていた。静かな沈黙が漂った。まるで周囲の時が止まってしまったかのように感じられた。
『理宇』
 口を動かさずに狼がぽつりと呟いた。それは、私に話しかけたというよりむしろ自分自身に言葉の響きを確認しているかのような呟きだった。
 住宅街に、明らかに普通の存在ではない狼がいて、しかもその狼が言葉を発した、ということには私は別段驚きはしない。こんなことにはもう慣れている。でも名前を言い当てられたことには少々面食らった。相手が何か語りかけてきたら応対する心構えではいたけれど、まさかこちらが名乗る前にぴたりと名前を言い当てられるとは思ってもいなかったし、これまでにもこんなことはなかったのだ。
 驚きのあまり私が何も答えられずにいると、気づいたのか目の前の狼が苦笑した。
『ああ、ごめん。驚かせちゃったね。君は、“僕ら”の間では有名だから』
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