*宵の歌姫*

□捨てた思い出
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「私なんかでよければ、お話は聞きますけど……」
 とりあえずそう答えた。小さなポットを手に取り、ミルクを紅茶に注ぐ。砂糖も添えられていたが、ミノリは紅茶には砂糖を入れない主義だった。ラキに飲むかと尋ねると、彼は首を縦に振って肩からそっと降りた。顔を近づけて紅茶を舐めるように飲む。その様子が愛らしくて、ミノリと女性は微笑んだ。女性が微笑んだのに気づいてミノリが顔を上げる。ミノリの視線を受けて、彼女ははっとしたような表情になった。
「あ、す、すいません。つい、可愛らしくて」
 しどろもどろになって女性が謝る。一体何のことで謝っているのか分からず、ミノリは首を傾げた。が、女性の慌てぶりがおかしくて思わず微笑んでしまう。女性は訝しげにミノリを見やった。
「いえ、何でもありません。それより、そろそろお話ししていただけるでしょうか?」
 女性は再び表情を暗くして頷いた。
「私、子どもを捨てたんです」
 ミノリは眉を顰めた。女性は俯きながら言葉を続ける。
「もう十年以上も前の話です。私には恋人がいました。でも、ちょっとしたいざこざがあって、別れてしまいました。別れた後、自分が妊娠しているということに気づいたのです。下ろそうとしましたが、強い子で。下ろせませんでした。結局、誰にも妊娠したことをいえないまま一人でお風呂場で産んで、怖くなって孤児院の前に捨ててきてしまったんです」
 女性は小さくなりながらコーヒーをまた一口すすった。気付け薬だとでもいうかのように。
「赤ん坊だけじゃありません。私は、住んでいた町も、両親も捨ててきました。怖くて怖くて、まるで何かから逃げるように。そして遠く離れたこの町にやってきました。今では結婚して新しい家族がいますが、時々、思い出すんです。捨てた赤ん坊のこと、両親のこと、生まれ故郷のこと……」
 後悔しているんです、と女性は言った。
「すごく後悔してるんです。あの時の私にもう少し勇気があれば。赤ん坊を捨てずに済んだのにって。私はこんな大罪を犯すことはなかっただろうにって」
 そう言って女性は涙ぐんだ。ミノリは何か声をかけようと思ったが、かけられなかった。結局口をつぐんでただ女性をぼんやりと見つめる。ラキはミノリの肩に戻って、そこから女性をじっと見つめていた。もう警戒しているような様子はなかった。ただ、観察していた。
 ミノリは紅茶を一口飲んだ。ミルクの甘みが心を癒してくれた。女性は鞄からハンカチを取り出して、それで目頭を押さえた。肩を震わせて泣くまいと堪えているのが傍目からでもよく分かる。そんな彼女を見て、先ほどから湧いていた疑問にミノリは言葉をおさえていられなくなった。
「どうしてあたしにこの話を?」
 ミノリの言葉に、女性の肩がぴくりと動いた。ハンカチでそっと涙を拭い、鼻をすすりながらミノリをまっすぐ見つめる。
「もし、私の捨てた娘が生きているなら、貴女くらいの歳になっているだろうと思ったのです」
 そう思ったら、話しかけずにはいられなくて。女性は声をあげずに泣いた。隅の方の席だったので、周りの客に怪しまれずに済んだ。ミノリは女性が落ち着くまでもう何も言わなかった。ただ紅茶を口にしながら、自分のことを考えていた。今朝方みた夢の内容を彼女は思い返さずにはいられなかった。
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