*宵の歌姫*

□捨てた思い出
2ページ/6ページ

 ラキは、初対面のときの警戒ぶりからは想像もつかないほど、今ではミノリに懐いていた。それを思うと、ミノリは微笑ましく思うと同時に少し呆れる。人間に虐待され、挙句の果てに捨てられた過去を持つ彼は、人間に対してはひどく警戒心が強かった。彼はミノリの傍にいつもくっついているが、ミノリが人前で歌うときはミノリの足元でそわそわと落ち着かなげに辺りを見回している。大勢の人間に囲まれることに恐怖に近いものを感じているのだろう。それならばミノリが歌を歌いに行くときは宿屋で待っていればいいと彼女は提案したが、ラキは断固としてミノリについていくと言い張っていた。彼女には、ラキが何故そこまでして自分にくっついていたがるのか本当のところは分からなかったが、想像できないこともなかった。彼は恐らく怖いのだろう。ミノリに捨てられるようなことがあったらと思うと、いてもたってもいられないのだろう。だから彼は人一倍ミノリのことを気遣うし、ミノリの役に立とうとする。要するに彼はミノリに依存しているのだ。
 先ほどまで自分を抱きしめていた彼を思う。ミノリはシャワーを浴びながら微笑んだ。彼は心からミノリのことを心配してくれていた。本当に、初対面の頃を思うと今の懐き具合は異状なほどである。でもそれも恐怖心の裏返しだと思えば不思議はない。いつか、ラキが心から自分のことを信頼できる日がくればいいのに、とミノリは思った。いつかそんな日が来るように、自分は自分にできることをしよう。ラキに対してだけでなく、どんな人に対しても真摯な態度で接するようにしよう。それが今の自分がしなければならないことだとミノリは考える。
 そんなことを考えていると、ふと今朝みた夢が思い起こされた。途端ミノリは笑みを消し去り、渋い顔になる。とうに心の奥底にしまいこんだはずの過去の思い出。それが、今更になって夢となって意識の表面上に浮上してくるとは。シャワーを止めて俯き、前髪から滴る水滴をぼんやりと見つめた。ぽとぽとと水滴は重力に従って下へ下へと落ちていく。あの頃の自分も、どん底へと落ちていこうとしていた。いや、既に落ちていたのかもしれない。孤児院の汚い部屋の隅で、声を押し殺して泣く小さな女の子。心ない言葉によって傷つけられ、自分を見失いそうになったあの頃。こっそり働いてお金を貯め、ある夜に孤児院を抜け出し、小さな町を飛び出した。お金はすぐ底をつき、途方に暮れて森のなかを一人さ迷っていると、一人の老人が助けてくれた。老人の粗末な家で一年近く暮らした。その一年の間に、老人は色々なことを幼いミノリに教えてくれた。光球の扱い方、読み書き、料理の仕方、精霊のこと、歌の歌い方。更に老人は、自分に大金を与えてもくれた。彼が助けてくれたおかげで、今の自分はあるといえるだろう。彼がいなかったら、今頃自分は死んでいたか、もしくは盗賊なんかに掴まって惨めな一生を送っていたに違いない。ミノリは彼に心から感謝していた。今思えば、彼は精霊だったのかもしれない。
 老人と暮らした一年は、ミノリにとっては良い思い出だった。だが、それ以前のことはミノリにとっては記憶から消し去ってしまいたい過去である。今日はそれ以前のことを夢にみてしまったのだった。ミノリは顔を上げて、髪を絞った。あらかた水分をとってしまうと、脱衣所に戻り昨夜使って乾かしていたタオルを手にとる。タオルはまだ少し湿っていたが、使えないことはなかった。タオルでしっかり身体の水分をとりながら、ミノリはまっすぐ前を見つめていた。
 あんたは、捨てられたんだよ。
 ミノリは否定するようにふるふると頭を横に振った。水滴が辺りに散った。その仕草はどこか弱弱しかった。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ