*宵の歌姫*

□傷ついた光
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 窓から飛び出すわけにはいかないので、病室を出て廊下を走る。途中看護士に怒られたが、ミノリはすいませんと口先だけで言って病院を出た。ぐるりと回って先ほどまでいた病室の辺りに行ってみる。そこからきょろきょろと辺りを見回した。そして、小さな黄色を見つけた。包帯を身体中に巻きつけ、よろよろと歩いている。ミノリは再び駆け出した。体格の差もあり、あっという間に精霊に追いついた。悪いとは思ったが、後ろからいきなり抱き上げる。案の定、精霊は驚いてパニック状態に陥った。
「離して!」
 身体中が痛いに違いないのに、精霊はミノリの腕のなかで暴れた。ミノリはしっかりと精霊をおさえつけて、来た道を戻る。
「動いちゃ駄目でしょ! まだ怪我完治してないんだから! 病院で大人しくしていなさい!」
 道行く人の不思議そうな視線をものともせず、ミノリは怒鳴った。と同時に精霊を抱く腕にぎゅっと力を込める。精霊は唸って大人しくなった。余程痛かったのだろう。可哀想だとは思ったが、こうでもしないと大人しく病室に戻ってくれそうになかった。ミノリは精霊の身体を揺らさないように気をつけながら足早に病院へと戻った。
 廊下を早歩きで歩き、手術室の近くの病室に入っていく。部屋に戻るとドアをしっかりと閉め、精霊をベッドに戻した。シーツをそっとかけてやり、窓を閉めて鍵をかける。そしてベッド脇に置いてあった丸いすに腰掛け、精霊を見やった。精霊は眉根を寄せてミノリを睨んでいる。ミノリは心のなかで肩を竦めた。どうやら自分はよっぽど警戒されているらしい。
「君の名前は?」
 ミノリは先ほどした質問をもう一度した。もともと人間と一緒に暮らしていたのなら、名前くらいあるだろうと思ったのだ。だが、精霊はミノリを睨んだまま言った。
「名前なんか、ありません」
 ミノリはきょとんとして精霊を見つめた。名前がないことはないだろう。本当につけられなかったのか? それとも、どうやら主人から虐待を受けていたようだから、もうその過去を消し去りたいとでも思っているのだろうか。精霊の心情は分からなかったが、ミノリは敢えて無理矢理聞き出そうとはしなかった。余計警戒されても困るからだ。
「名前ないんだ。さっきも言ったけど、あたしはミノリ。よろしくね」
 すると精霊は驚いたようにミノリを見上げた。ミノリは警戒心とは全く関係のない純粋な驚きを彼のつぶらな黒い瞳に見て、首を傾げる。自分はそんなに驚かせるようなことを言ったろうか。
「僕の言葉が分かるんですか?」
 何だ、そのことか。ミノリはこくりと頷いた。ミノリは精霊の言葉が理解できたが、それは物心ついたときには既にそうだった。だから他の皆も同じように精霊とコミュニケーションが図れるのだろうと勝手に思いこんでいたのだ。最近では他のひとは自分とは違うのだということをちゃんと理解していたが。しかし精霊の言葉が分かるのは、何も自分だけではないだろうとミノリは思っていた。宵風と初めて出会ったときも、そういえば驚かれたような気がする。と宵風のことを思い出し、ミノリは心のなかで勢いよく頭を横に振った。
 相変わらず精霊はミノリのことを驚いた表情で見つめている。驚くあまり、ミノリを警戒することをすっかり忘れているようだ。その可愛らしい様子に、ミノリは思わず微笑んだ。ミノリが微笑んだのを見て、精霊ははっとする。
「どうして貴女はここにいるんですか?」
 精霊がミノリに質問をした。何と答えたらよいものかミノリは一瞬思案したが、すぐに答えを出した。
「君を路地裏で拾ったのが、あたしだったから」
 君のことが気になって。素直にそう言うと、精霊は訝しげに眉を顰めた。
「それだけですか?」
「え?」
「それだけで、僕の傍にいるんですか?」
 ミノリは精霊の言いたいことが分からず、小首を傾げた。が、精霊の瞳のなかに戻った警戒心を見つけて、理解する。ああ、この子は、あたしを警戒してこう言うんだ。あたしのことを信じられないから、傍にいてほしくないんだ。いや、あたしを、じゃない。人間全体を警戒しているんだ。
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