*宵の歌姫*

□狐と少女
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 茂みの奥から姿を現したのは、一人の人間の少女であった。漆黒の長い髪が揺れ、明るい星空のような深い群青色の瞳が大きく見開かれて彼の姿を映していた。雪のように真っ白な肌は星の光に溶けてしまいそうで、華奢な肩には見るからに重そうな鞄が斜めにかけられていた。身体つきは全体的に細いが、顔はどこか丸みを帯びていた。愛らしい少女だった。翼が生えていたなら天使と見間違えたかもしれない。
 しかし彼の気を引いたのは、彼女の外見でも重そうな鞄でもなかった。それは、彼女の持つ雰囲気だった。今まで人間と遭遇するのを極力避けてきたため当然なのかもしれないが、その少女は狐が今まで会ったことのあるどの人間とも全く異なった雰囲気を持っていた。それはまるで砂糖菓子のように甘く、たんぽぽの綿毛のように柔らかく、星の光のように儚いながらもどこか強く、そして神話に聞くタイヨウのように包みこむような温かさを含んでいた。狐は自分でもよく分からないまま衝撃を受けてその場に立ちすくんだ。何か電撃のようなものがうなじを走り、身体全体を駆け抜けた。彼は少女を穴が空くほど見つめた。少女もまた、何か感じるところがあったのだろうか、狐を驚きに満ちた瞳で見つめ返していた。
 どのくらい見詰め合っていたのだろう。彼には、一瞬のことにも数時間のことにも思えた。気づけば少女は狐に一歩一歩確実に近づいてきており、狐はその場に根が生えてしまったかのように動けなくなっていた。いや、動く気にならなかった。彼は大人しく少女が自分に近づいてくるのを待っていた。
 待っている間も少女を観察していた。すると、少女の腕に走る一筋の赤い線が目に入った。木の枝にひっかけでもしたのだろうか、それまで気づかなかったことが不思議なくらい、大きな傷痕だった。傷自体はそれ程深くはなさそうだったが、早く消毒しておくにこしたことはない。狐はまるで怪我をしたのは自分だとでもいうかのように眉間に皺を寄せて、
「あんさん、大丈夫どすか?」と少女に尋ねていた。尋ねてから、はっと気づく。この姿のときは、人間には言葉は通じないのだった。人型になれば意思疎通を図ることができる。人型になるか。いや、しかしいきなり人型になって相手を驚かせるのもいかがなものか。目の前の少女がそんな人間だとはあまり信じたくはないが、自分の正体を明かした途端に自分を捕獲しようとする可能性だってある。何も、見ず知らずの少女のために自分の身を危険に晒すことはない。そんなことをぐるぐると考えていると、少女は不意ににっこり笑って、
「ありがとう。この怪我のことを心配してくれてるんだね。でも、これくらいなら大丈夫」と答えた。狐は再び衝撃を受けて少女を見つめた。少女はそんな彼の様子を見て、小首を傾げた。
「あんさん、我の言葉が分かるんどすか?」
 彼は震える声で尋ねた。信じられないことだった。だが、一瞬考えこむような素振りを見せた後、少女は平然と頷いた。狐は呆然として少女を見上げた。今や彼女は狐の目の前に立っていた。
原型時の自分たちの言葉を理解する人間などに、狐はこれまで会ったことがなかった。世の中にはこんな特殊能力を持った人間がいたのか。実は大勢いるのだろうか。それとも、この少女が特別なだけなのだろうか。狐は少女を見上げて、今更ながらに少女が自分の目と鼻の先にいることに気づくと、一歩後ずさった。
「あ、怖がらないで」
 何もしないからと少女が優しい声音で言った。鈴が転がるような、美しい響きを持った声だった。狐が思わずその声に聞きほれてしまう程だった。
「道を教えてほしいだけなの」
 迷っちゃって、と困ったように笑う少女。頭に片手をやり、もう片方の手で鞄のなかを探っている。中から取り出したのは地図のようだった。随分と古ぼけた地図だ。端の方が黄ばんでいる。あまり古いと地図としての役割を果たさないのではないかと狐は思った。少女はそんな地図を破れないよう丁寧に広げ、狐に見えるように屈みこんだ。
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