*宵の歌姫*

□歌い手になった男
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「はい、ブラッシング終わり」
 そんな宵風の気苦労も知らず、ミノリが暢気にブラッシングの終了を告げた。宵風は立ち上がって、大きく伸びをした。
「おおきに。気持ちよかったわぁ」
 そう言ってから、身体をぶるんと振るわせて人型になる。ミノリは、鞄を探って寝袋の準備をしながら、不思議そうに首を傾げた。
「どうしてわざわざ人型になるの?」すると宵風は、
「こっちの姿の方が虫を寄せ付けんさかい」と言って笑みを浮かべた。
ミノリは怪訝な表情をしたが、それ以上聞くことはしなかった。ふぅんと適当に相槌を打って、鞄から取り出した寝袋を広げる。「でも寝袋はひとつしかないよ」とだけ言い添えた。
「ミノリはんは気にせんでええから、寝袋に入ってはよ寝ぇ」
 宵風にちらちらと視線を向けていたミノリにそう言って、宵風は肩膝をたてて焚き火の傍に座った。枝をつついたり足したりして少し火を強くする。小枝のステージの上で炎が赤々と踊り、煙がもくもくと立ち上った。木々の隙間から星空が垣間見えた。
 ミノリは宵風の言葉に素直に従って、気になる素振りを見せつつも寝袋のなかに入った。チャックを上まで引き上げ、温かい布にすっぽり包まって仰向けになる。木々で小さく切り取られた星空が、ミノリを優しく見下ろしていた。宵風は寝袋のチャックを端まで上げてやり、ミノリの頭をいつくしむようにそっと撫でた。
「ほんなら、おやすみ。いい夢見ぃや」
「うん、おやすみ、宵風。宵風もちゃんと寝るんだよ」
 ミノリの言葉に宵風は微笑んで頷いた。ミノリの目は既にとろんとしていて、言葉の終わりの方は蚊の鳴くような小さな声になってしまっていた。ミノリは睡魔に抗うことなく、易々と降伏した。辺りはひどく静かだった。ぱちぱちと炎のはぜる音が唯一静寂を破る音だった。宵風は暫くミノリの安らかな寝顔を、微笑みを浮かべて見つめていたが、ひとつ大きな欠伸をして、ミノリの傍にごろんと横向きに寝転んだ。肘をたてて手の上に頭を乗せる。その姿勢で、宵風はうつらうつらとし始めた。

 ぱきん、と小枝の折れる小さな音がして、宵風ははっと目を開けた。素早く起き上がって周囲に目を凝らす。耳を澄ませて物音がしないか気配を探る。夜の闇に感覚が研ぎ澄まされていくような気がした。
 と、ぱきん、とまた小さな音がした。続いてガサガサと茂みが揺れる音。宵風の目の前で、小さな茂みが揺れた。宵風はミノリを庇うような姿勢で茂みの方に意識を向ける。ミノリは小さく寝息をたてて眠りこんでいた。
 茂みからぬっと男が現れたのを見て、宵風は警戒心を露わにした。鋭い視線を男に投げかけ、威嚇する。男はまず焚き火に目をむけ、続いて宵風と、宵風の傍らで眠りこんでいるミノリへと視線を順々に移して、大またに近づいてきた。宵風は更に威嚇したが、男は全く気にしていない風だった。
「すいません、よければ、一晩ご一緒させていただけませんか」
 男は宵風に遠慮がちに言った。無精ひげを生やし、大きな目をした男は、どこか頼りなさ気な風貌をしていた。しかし宵風に伺いつつも、男は既に焚き火を挟んでミノリと宵風の向い側に荷物を降ろして腰を落ち着けていた。宵風は少し警戒を解いて、男を呆れたように見やった。
「いいですか聞いといて、あんさん、とっくにご一緒しとるやん」
「いや、すいません。一人では火を起こせなかったもので」
 大きな荷物から何か袋を取り出し、その袋から更に乾パンを取り出してかじりながら男は言った。頭を少し下げ申し訳なさそうな顔をつくったものの、本人はいたって寛いでいた。男から危険なにおいはしなかった。だから宵風は警戒を少し解いて、濁りのない瞳で男を観察した。
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