短編

□ダレカ
3ページ/4ページ

僕がそう思いながら街灯を見つめていると、不意にニキがブランコをこぎ始めた。こぎながら、歌を口ずさみ始める。メロディはどこかで聴いたことのあるものだった。耳をよく澄ましてみると、歌詞の内容が意味のある言葉となって僕の鼓膜を振るわせた。詞は、初めて聴くものだった。

明日なんて来なければいいのに
今日も明日も変わらない私なんて嫌よ
未来なんてちっとも明るくない
私はダレカになりたい
私でないダレカ
幸せなダレカ
幸せを運ぶダレカ
私はダレカになりたい
そうすれば皆幸せ
未来だってきっと明るくなるのに

「やめてくれ」
 僕は思わず耳を塞いで呻いた。ニキはブランコをこぐのをやめたついでに歌うのもやめた。ブランコのふり幅が徐々に徐々に小さくなっていく。いつの間にかニキが僕の顔をじっと見つめていた。その瞳にはただ、深いブルーの光だけがあった。顔自体には何の表情も浮かんでいなかった。
「ニキ、何度言ったら分かるんだ。ニキはニキであって、他の誰かにはなれやしないんだよ」
――分かってる。
「ならなんでこんな歌詞を作ったんだ」
――だって、どうしてもニキは天使になりたいんだもん。笑鬼なんて、嫌だ。
 そう言って、口を尖らせるニキ。僕は怒りを通り越して呆れを感じた。声を荒げる気力さえ失せた。
「嫌だといっても、ニキは笑鬼なんだから。仕方ないじゃないか。そんなわがまま言ったところで、何も変わりはしないよ」
 でも、と抗議するかのようにニキの小さな翼が激しく羽ばたいた。それでもニキの小さな身体が宙に浮くことはなかった。僕はやっぱり、何の感慨もなく彼女の白い翼を見つめた。ただ、背中から生えているだけの翼。何の役にもたたない翼。ふわふわした白い羽毛だけが、街灯の淡い光を受けてかすかに輝きながら宙を舞った。羽毛は地面に着地すると同時に、まるでシャボン玉のように軽く弾けて消えた。儚かった。
「ねぇ、ニキ」
 僕は膝に両手をついて、少し前かがみになってニキと目線を合わせた。ニキはブランコの鎖をぎゅっと握りしめ、僕と視線を合わせる。口は相変わらず尖ったままで、眉間にはかすかに皺が寄っていた。深い色を灯したつぶらな瞳に、困ったような表情をしている小さな僕が映っていた。
「ニキはニキで、完璧なんだよ。ニキはそう思わないかもしれないけれど。ニキは可愛いし、本当は優しいし、頭だっていいし、ひとのことを恨んだり怒ったりしないし。生きるためにひとの幸福を食べていかなければならないのは、確かにニキにとってはすごく嫌なことなんだろうけど、でもね、ひとは皆、生き物を食べなきゃ生きていけないんだよ。不殺生主義を掲げるひとだって、どうしたって植物や動物の命を食べない訳にはいかない。それは、罪を作ることだけれど、仕方のないことなんだよ。生き物は生きていく上で、罪を作らずには生きてはいかれない。大切なのは、そのことを自覚して、罪を必要最小限におさえること。いかに罪を償っていくか、ってこと。償い方には色々あるけどね。一所懸命に自分の生を感謝して生きるというのも、償い方のひとつだと僕は思うけれどね。ニキは自分が罪を作っていることを十分自覚しているし、ひとの役にたとうという気持ちだけは十分ある。あとはそれを実際の行動に移すだけだよ。それだけで、ニキは本当に完璧な存在になれる」
 ニキは肯定も否定もしなかった。
 ただ、僕の目を真正面からじっと見つめて、無表情を保っていた。瞳がわずかに揺れた気がしたけれど、それは僕の気のせいかもしれなかった。
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ