短編

□ツバサの日記
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△月六日

ロウが「すき」と「ありがとう」を連発してくるようになった。正直これは困るかもしれない。「ありがとう」はいいんだけれど、「すき」の方が……。どんな反応をすればいいのやら。まぁ、ロウはこっちがどんな反応をしようが笑っているから、別に深く考えないでいいのかな。ほっぺが熱くなってしまうのも、別に気にしないでいいのかな。
それにしても、一体父さんはロウにどんな教え方をしているんだろう? ちゃんと教えてあげてるんだろうか。ここはぼくが教えた方がいいかもしれないと思って、ロウに「すき」を使うべき場面を教えようとしたけど、上手く教えられなかった。教えるって、難しい。先生ってすごいんだなって今更ながら思った。


△月七日

気づいたことがある。
それはなにかって、最近、母さんがよく笑うようになったってこと。前は、こんなに笑わなかった、いつも顔に疲労感漂う皺を深く刻みこんで、眉を顰めて困ったような、つらそうな顔をしていたのに、今ではガーネットの花みたいに鮮やかに笑ってくれる。元がいいから、そうやって笑うと母さんはすごく美人に見える。心から笑っているんだ、きっと。ぼくは嬉しい。母さんは苦労性で笑えないんだと思っていたから、心から笑えるようになって本当に嬉しい。
そしてもうひとつ気づいたこと。
父さんが、最近働き口を探し始めたようなのだ。
友達と一緒に改札を出たら、駅に置いてある無料求人雑誌を黙々と読んでいる父さんを見かけたことが数度ある。本人は物陰に隠れてこっそり読んでいるつもりみたいだったけど、丸見えだった。友達に見られたのはちょっと恥ずかしい。でも、嬉しさの方がずっと大きい。だって、働き口を探し始めたということは、しばらくは長い長い旅に出るつもりはないということだから。ロウもいることだしね。父さんがいなくなったら、誰がロウに言葉を教えるんだろうって不安に思うこともなくなる。それに……それに、正直に言って、寂しかった。ぼくと母さんを放っておいて旅に出られるのは。家族のために働いて、夜には必ず家に帰ってきてくれるお父さんをもつ友達のことを何度羨ましく思ったことか。
この、父さんと母さんの変化の原因は何なんだろうって考えてみた。でも、考えるまでもなかった。だって、原因はすぐに思いついたから。
ロウだ。ロウが、二人を変えてくれたんだ。ううん、二人だけじゃなくて、きっとぼくのことも。
ロウはいつも笑うようになった。どんな小さなことでもすぐ笑うし、始終にこにこ微笑んでる。「ありがとう」と「すき」はすっかりロウのお気に入りの言葉で、この二つの言葉を、一日に十回は発していると思う。いや、もっとかな。とにかく、たくさん連発している。
きっとぼくたち、これからはいい家族になれる。ロウのおかげで、ぼくたちは変われる。ロウが来る前は、はっきり言って、どこか諦めていた。きっとぼくが独立したら、父さんと母さんは離婚しちゃって、家族はばらばらになってしまうんだって。父さんと母さんの気持ちは互いにすれ違ったままで、そのまま開いた溝はどんどん広がっていってしまうんだって。
でも、ロウが変えてくれた。ロウは、ぼくたちに新しい道を示してくれた。まだ日本語は片言だし、綺麗に発音できる言葉といったら、「ありがとう」と「すき」とそれからぼくの名前くらいだけれど、それでもロウはぼくらよりもずっとすごいものを持っている。そんな気がする。ロウのおかげで、ぼくらは新しい、光に満ちた未来へ向かって飛んでいける。今では、父さんにとっても感謝している。ロウを連れ帰ってきてくれてありがとうって。

そういえばこの間、近所のお姉さんに頼んでロウと、お姉さんの狼みたいな犬とを対面させてみた。そしたら、ロウは狼似の犬の目をじっと見つめて、長い時間じっと見詰め合って、それからやっぱりいつものように、笑顔で「ありがとう」と「すき」って言った。それを聞いてお姉さんは笑ったし、ぼくも思わず笑ってしまった。犬まで笑ったようにぼくには見えた。
実を言うと、お姉さんとぼくはそれ程親しい間柄ではなかった。でも、ロウのおかげでぼくはお姉さんと仲良くなれた気がする。今度ロウと三人で、犬の散歩に行く約束をした。
もしかしたらロウには、人と人とを繋げるちからがあるのかもしれない。
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