短編

□カノン・ジムノペディ
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 アキちゃんは泣いていた。
学校から帰ってきたアキちゃんは、玄関に入ってドアを荒っぽく音を立てて閉めた途端、くしゃくしゃに丸めた紙みたいに、私の大好きな、あの可愛い顔を歪ませて、近所迷惑なんてこれっぽっちも頭にない様子で、今まで私が聞いたこともないくらい大きな声を上げて泣き始めた。その声を聞いて、思わず驚いて動きが止まってしまったのは、多分後にも先にも私だけ。誰も駆けつけてこなかったのは、家の中には私とアキちゃん以外、誰もいなかったから。スクールバッグが肩からずり落ちて肘に引っかかると、肘にかかった突然の負荷に耐え切れなかったように、アキちゃんは泣きながら床に崩れおちた。それでも私はまだ動き出せずにいた。
最初のショックが過ぎ去ると、私は漸く動くことができるようになった。恥ずかしながら、不意打ちに弱い私は、驚くといつもパニック状態に陥って、身体が勝手に時を止めてしまうのだ。この性質は生まれつき。神様から授かったもの。神様も余計なものを私にプレゼントしてくれたものだ。このいらない贈り物は困ったものだと今まで何度も治そうと試みてきたけれど、荒療治ではどうやらこの癖は治らないらしい。具体的にどんなことをしたのかは、まあ今そんな話をしたところで何の意味もないし、思い出してもあまり気持ちのいいものではないから、詳細は省略。ただ、私の友だちや弟に少しばかり協力してもらって、心臓に悪いことを勇敢にも敢えてしてみただけだとでも言っておこうか。とにかく、そのうちに、まあ別に普段この平和な日常生活を営むにあたって、滅多にパニック状態をすぐに解かねばならない危機に陥ることなどないだろうと思うようになって(断じて、面倒臭くなった訳ではない)この悪癖を治す努力を全くしなくなっていた。だから私は、この時すぐにアキちゃんの元に駆け寄ることができなかった。はっと我に返って動き出した時には、アキちゃんの泣き声はいつしか啜り泣きに変わっていた。よろよろと力なく立ち上がり、スクールバッグを無造作に右手で掴んで、まるで魂がすっかり抜けてしまったような顔をしてアキちゃんは階段を上っていった。そんな幽霊みたいなアキちゃんの後を少し遅れてついていった。こっそり、足音を忍ばせてついていったのは、勿論アキちゃんを気遣ってのこと。自分のことで頭が一杯のときのアキちゃんは、自分が望まない他人の介入をひどく嫌うから。いくら私とアキちゃんが一心同体だと豪語していても、アキちゃんが望んで求めてくれない限り、私はひどく頑丈なアキちゃんの心の壁を乗り越えることができない。折角アキちゃんはここまで元気になったのに。またあの頃の状態に戻るようなことは、決してあってはならないの。決して。だから私たちは、落ち込んだときのアキちゃんに接するときにはいつも以上に気をつけて細心の注意を払う。腫れ物に触るときのように。下手したら逆戻りしてしまうかもしれないから。それだけは、絶対に駄目。
一番注意しているのは私だと言いたいけれど残念ながらそうではない。やっぱりお母さんにはどうしたって負けてしまう。自分の子となるとやっぱり違うのだろうか。私は結婚すらしたことないからよく分からないのだけど。仕事もあるのによくあそこまで自分のことは放っておいて、アキちゃんのために尽くせるものだとこの私でも感心してしまう程。一生涯、アキちゃんに身を捧げることを神の名にかけて誓ったこの私でさえ。
それはさておき。アキちゃんが自分の部屋に入ってドアを閉めようとしたとき、私はギリギリ身体を狭い隙間から部屋に滑り込ませることに成功した。まあ、このスリムでしなやか、神々しい程に美しい体躯を持つ私にとっては朝飯前のこと。
ドアは、玄関のと違って大袈裟な音を立てることはなかった。
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