*宵の歌姫*

□捨てた思い出
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 ミノリははっと両目を見開いた。全身が汗でぐっしょり濡れている。気持ち悪い。嫌な夢をみてしまった。ミノリは浅い呼吸を何度も繰り返して心を落ち着けると、寝返りを打とうとした。しかし打とうとした、で終わった。何故か打てない。不思議に思って、眠りから覚めたばかりの働きの鈍い頭で今の自分の状況を考えてみた。どうやら、自分は誰かに後ろから抱きしめられているらしいと判断する。一体、誰に。
 一気に頭が冴えた。ばっと顔をあげて自分を抱きしめている相手を見やる。彼は、すうすうと穏やかな寝息をたてて眠っていた。明るい亜麻色の髪は、灯りを消しているので今や黒髪のように見える。目鼻立ちがくっきりとした愛らしい少年だ。この少年が一体誰だったかを瞬時に思い出して、ミノリは呆れ顔を作った。
 光の精霊ラキが人型をとれるということを知ったのは、昨夜のことだった。ラキの説明によれば、精霊は皆人型をとることができるのだという。ただ、人間に人型時の姿を見せないというのが暗黙の了解になっているらしい。何故かはラキにも分からないという。しかしラキはこうして人型を見せたし、宵風もしょっちゅう人型をとっていた。何故自分に人型の姿を見せるのかと問うたら、見せたいからだと笑顔で返された。宵風の理由は分からないが。二人の考えがミノリにはよく分からない。
 宵風は、相変わらず音沙汰なしだった。彼は本当にあの置手紙を読んでくれたのだろうかと不安になる。いや、置手紙を読んだからといってすぐに自分を追いかけてくれるとも限らないが。そうだ、彼だって、家族とゆっくりしたいのだろう。自分のことばかりでなくて、たまには相手のことを優先しなければならないとミノリは自分を戒めた。そうすることで、胸のなかのもやもやとした気持ちを無理矢理に押さえ込んでいた。ミノリは弱かったから、そうでもしないと寂しさに気が狂ってしまいそうで、怖かった。
 しかしそれにしても、何故自分は今人型のラキに抱きしめられた状態で横になっているのだろうか。確か昨夜眠ったときは、ラキは原型でベッドに入ったはずだ。いつの間に人型になったのだろう。とりあえず起きてシャワーを浴びたいのだが、こう抱きしめられた状態では起き上がれない。と思いきや、駄目もとでラキの腕を押し上げてみると案外簡単に抜け出せた。ミノリはほっとしてベッドから降りようとする。
「ミノリ」
「わっ!」
 折角抜け出せたのに、またもや腕のなかに引き戻されてしまった。驚いて顔だけ振り返る。ラキが笑みを浮かべてミノリを抱きしめていた。
「離してよ。シャワー浴びたいんだから」
 そもそも何でわざわざ人型になってあたしを抱きしめてるの、と尋ねると、ラキは、
「だって、ミノリ、うなされてましたから」
 と平然として言った。ミノリは苦い顔になる。
「大丈夫ですか?」
 ミノリを抱きしめたままの状態で、ラキが心配そうに尋ねた。ミノリは暫く夢の内容を思い出して虚空を睨みつけていたが、不意に頬を手で叩いて自分に喝を入れると、再びラキの腕から逃れようともがいた。
「もう大丈夫だから、離して」
 それを聞くとラキはあっさり彼女の束縛を解いた。ミノリを苛めて楽しむような趣味は彼にはないのだ。彼はただ純粋にミノリのことを心配していただけなのだった。ミノリはベッドから転がり出るようにして慌てて這い出る。脱衣所のドアを開けて中に入り、内から鍵をかけた。寝巻きを脱いで壁のフックにひっかけ、浴室に入った。シャワーから熱いお湯を出す。頭からかぶり、気持ちをすっきりさせようとする。気持ちの悪い汗が肌をすべり落ちるお湯と共に流れていく。
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