『フルハウスキス』

□ただ、振り向いて欲しかった
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ピアノを弾く僕の後ろのソファで。

むぎちゃんが、泣いて真っ赤にした目をしたむぎちゃんが。

今はすやすやと寝息を立ててる。

最近眠れない、らしい。

だけど、僕のピアノを聴いてると眠れるらしくて。

きみは度々、この部屋へやってくるようになった。


一哉の事故のあと、またむぎちゃんはこの家に戻ってきた。

家に灯りがともる。

温かなごはんと、笑顔。

みんなの心にも、明かりが灯るんだ。


ラ・プリンスと呼ばれて。

周りにはいろんな女の子がいるけれど。

こんなに心があったかくなる子なんて。

他に知らない。


それからしばらくたって、それが当然のように、一哉とむぎちゃんが付き合いだした。

無邪気なむぎちゃんの笑顔が。

女の情欲を含んだ笑顔に変わる。

一哉の前でだけ。


なのに。

絢子とかいう女のせいで。

むぎちゃんが涙を流す。


ピアノを弾くのが、いやだった時期もあったよ。

でも。

「瀬伊くんのピアノはとっても綺麗ね」

そう言うから。

だから、僕はむぎちゃんのためだけにピアノを弾くんだ。

そうすると、むぎちゃんの涙が乾いていくから。

そうすることでしか。

むぎちゃんの涙を止められないから…。



「むぎちゃん?」

横たわるむぎちゃんの眦には、涙のあと。

そっと、指で拭う。

まつげが震えて、ゆっくりと瞳が開いた。


「起こしちゃった?」

「ん」

ぼぅとしたまま、むぎちゃんはしばらく僕を見つめてたけど。

大きく深呼吸を3回して、自分のほほをパンッて叩いた。

「大丈夫!」

そう言って、にこって笑った。

苦笑するしかないでしょ。

「へんなむぎちゃん」

そんな、無理につくった顔で笑うなんてさ。

ばれてないとでも思ってるの?


「ね、僕プリン食べたい。生クリームたっぷりのせてね」

「しょうがないなあ」

そう言いながらむぎちゃんは立ち上がって、う〜んとのびをする。

「んじゃ、いっちょ瀬伊くんのためにプリン作りますか!」

「わ〜い」

むぎちゃんのプリンはとても美味しいから、僕は大好きで。

こうやって度々ねだる。

でも、ホントはね。


「お菓子つくってるとイヤなことも忘れちゃうの」

て、むぎちゃんが前に言ってたから。

もちろん、そんなこと言わないけどね。


「瀬伊くん、またピアノ聴きにきてもいい?」

「もちろん」

「ありがと!」

そう笑って、ピアノ室から出て行く。

廊下に出て、階段を上がる。

その後ろ姿を僕はじっと見つめてた。


「大好きだよ、むぎちゃん」

絶対に聞こえないくらいの小さな声で。

僕はそっと呟く。

もちろんむぎちゃんは振り返らない。


でも、本当は振り返って欲しかったんだ。

僕の声を聴いて欲しかった。


ねえ、むぎちゃん。

僕の前で涙を流さないで。

抱きしめてしまいたくなるから。



ねえ、むぎちゃん。

僕の前以外で涙を流さないで。

嫉妬で狂いそうになるから。



もし、むぎちゃんが振り向いたら。

僕はきっと、きみを離さない。

一哉のとこになんて、帰してあげない。


だから。

本当は。

ただ、振り向いて欲しかった……。



「好き、だよ」


僕の声は、もうきみに届かない。






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