短編

□偶然にも不運な野良猫、の観察
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 ふふふー、今日もノラは可愛い。
 煮干し持ってきたんだけど、欲しくない?


「あーあ、瑛ちゃんまたやってる」


 締まらない顔で、ノラをからかう友人を見ながら、誰に言うでもなく呟いた。


 “ノラ”こと矢野良が、毛を逆立てた猫のような様子も見慣れてた光景だった。



 フギャーッ!!!!



 猫の威嚇よろしく反撃に出たノラ。
 口下手なのか、言い返すという手段に出ることは少ない。
 いや、感情的になると、手が先に出てしまう性分なのかもしれない。



 そんなノラを子どもっぽいと思うのは、俺だけじゃないはずだ。

 ノラという渾名。
 瑛ちゃんのからかい。
 それらが嫌だと言うのなら、もっと他の対処法があるはずだ。

 嫌悪感を表出させればいい。
 侮蔑の眼差しを向けて、全身で瑛ちゃんを拒絶すればいい。
 瑛ちゃんの全てを否定すればいい。

 ――その術を知らないのは、子どもだから。


「優しいんだよ、ノラは」


 いつの間にか、瑛ちゃんが隣にいた。
 赤くなった手の甲を、自慢するように俺に見せる。


「見て、今日は引っ掻かれちゃった」


 傷を撫でる表情は、愛しさに溢れている。

 好きで好きで堪らないノラ。
 彼からつけられた傷さえ、愛しくて堪らないのだろう。


「確信犯のくせに」


 呆れながら呟く俺に、瑛ちゃんは肯定するようにニコニコと笑う。


 無邪気さと狂気が紙一重の笑み。
 ――誰が気付いているだろう。


 瑛ちゃんが無類の猫好きであることは、仲の良い友人なら大抵知っていた。
 それが猫っぽい人間にまで及ぶと誰が予想しただろう。
 付き合いの長い俺さえ、予想外だった。


 ノラへの異常な執着。
 ――誰が気付いているだろう。


 瑛ちゃんが、気まぐれでノラにかまっているわけじゃない。
 毎日だ。
 毎日、ノラにかまっている。
 時間や回数さえ決まっていることは、対象となっているノラも解っていないだろう。


 日課と呼ぶには、異常な行動。
 ――誰が気付いているだろう。


 最初は、俺も気付かなかった。

 好きな子に印象づけておくためには、それが悪いイメージでも構わない――子ども染みた行動を取ったな、と冷めた感想を持っていた。

 次第に、気付いた。
 瑛ちゃんの異常性に。
 おそらく、俺にも同じような異常性があるから気付けた。




「この引っ掻き傷、どのくらい残ると思う?」


 手の甲を愛しげに撫でながら、瑛ちゃんは俺に尋ねる。
 訊くときはいつも、治るではなく、残るという言葉を使う。


「腫れてるだけだからね、今日中に消えちゃうよ」
「なーんだ」


 残念、と瑛ちゃんは呟く。
 傷があるほうが嬉しいらしい。


「瑛ちゃんは、さ」
「うん?」
「ノラ限定でマゾだよね」
「うん」


 即答。
 否定することも躊躇することもない。

 何処か誇らしげに答える瑛ちゃんに、俺は諦めにも似た呆れを感じた。


「ノラは優しいんだよ」


 隣に来たときと同じ言葉を、瑛ちゃんが呟く。


「ほら、」


 視線でノラを示す。

 机にうっ伏した状態で寝ているように見えたが、チラリと瑛ちゃんを盗み見ている。

 気にしているのは、瑛ちゃんの手の甲――ノラが引っ掻いた傷だ。


「からかったのは俺で、この傷は当然の報復――そう割りきっちゃえばいいのにね」


 それが出来ないのは、ノラの優しさだと瑛ちゃんは言う。

 ノラの感情は、ただ漏れしている。
 表情や言動、雰囲気から、解りやすいほど漏れている。

 瑛ちゃんとのやりとりでも、感情の移り代わりが手に取るように解る。
 からかわれたことへの不満を感じ、怒りが抑えきれず爆発――落ち着いてくれば、自分の行動を省み、後悔するというサイクルだ。



 瑛ちゃんとノラの目が合った。
 その瞬間、バチリという音が聞こえたのは気のせいだろうか。


「ノラ、大好き」


 遠くからでも読み取れるようにゆっくりと呟いて、瑛ちゃんは手の甲の引っ掻き傷に口付けた。


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