刃の下に心在り
□蝉時雨
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きっと、運が悪かったのだと思う。
「時雨でしょう。時期に止むかと」
「だといいが」
雨。雨。霧の様に細かな粒が、肌に纏わり付く。体温が奪われていく。霧は益々深くなり、雨音がはっきりと聴こえる頃にはすっかり濡れ鼠であった。溜息を吐く。
「どうかしましたか?」
「運が良いやら悪いやら」
「小屋があったのですからまだ良い方でしょう」
「そうかねぇ」
何とは無しに隣を見遣る。窓の外を眺める横顔を見た。これは珍しい。この両の眼は、いつもこちらに向けられているから。思わず魅入る。直ぐに眼が合ってしまったけれど。
「何か」
「いいや」
正直に言うのも躊躇われて。ゆっくりと瞬きをする。ゆるり、口許に笑みを浮かべて。長い睫毛に乗った雫が、つっ、と頬を伝う。
「見惚れましたか、先生」
「嗚呼そうだよ、利吉君」
そう言ってやれば。少しは動揺するかと思ったのに。
「私は貴方に見惚れていました」
「…それは、また」
意地の悪い事だ。ここで赤面でもしていれば可愛げがあるというものだのに。素知らぬ顔で笑って。
「それと、もう一つ」
「…何かな?」
「私は今、貴方に触れたい」
熱の灯された眼でもって。君。そんな事を言うものだから。
「いけませんか?」
「好い、とは言い難いな」
「悪い、とは言い切れないのですね」
すっ、と距離を詰めて。互いの息が触れる、寸前で。君があんまり嬉しそうに笑うものだから。
「そういう事にしてあげよう」
「ありがとうございます」
雨に触れる。人肌を伝うそれは、酷く。言い訳を胸で呟いて、探られぬ様口を塞いだ。この手が酷く、愛おしいのだと。知られては、悔しいから。
鳴り止まぬ蝉時雨
(夏なぞ、)
(疾うに過ぎ去って)
(蝉の所為にゃ出来やしない)
(君の、)
(好い様にさせてあげるから、)
君の所為だと言わせておくれ。
End.