Please,forgive me.
□sette
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車から数m離れた場所で、部下に話を聞かれないようにと曲がり角で身を隠す。
未だ呑気に煙草をくゆらせるヴァレリアスに、アンシェルは怪訝そうな表情を向けた。
心なしか緊迫した雰囲気が漂う。
嫌な予感がするのだ。
幼少期から、人一倍勘がよく働く質だった。
特に悪い事に関するものは。
ゆっくりと愛煙を吐き出す養父が口を開くのを、アンシェルは静かに待っていた。
それを知ってか知らずか、彼はもう一度深く煙を吸い込む。
どんどん短くなっていく煙草を見やりながら、ヴァレリアスは漸く言葉を紡ぎ始めた。
「……俺はな、アンシェル、」
「はい」
「今こうして、ドン・ヴェルティローネとしてお前の目の前に居る訳だが」
「…はい」
「この馬鹿でかい椅子は、お前が座っても良いと思ってる」
「な…!」
何の緊張感も無く淡々と言い放たれた言葉。
まるで日常で繰り返される他愛のない会話の様なそれに、アンシェルは目を見開いた。
「遺書は俺の机の引き出しに入ってるからな。詳しい事はそいつを見てくれ」
「ちょっ…と待って下さい! どういう事ですか!? 遺書だなんて、貴方はまさか───!」
「馬鹿、万が一だよ、万が一」
勝手に殺すな、と苦笑しながら訂正するヴァレリアス。
再び吸い込んだ煙草の火は、既にフィルターの部分にまで達していた。
ヴァレリアスはコンクリートの壁に煙草を押し付ける。
先程握り潰したパッケージには、もう一本も煙草は残っていない。
小さく舌打ちをして、彼はポケットに両手を入れてアンシェルに向き直る。
「テメェで蒔いた種だ、テメェでケリ付けねぇでどうする」
「しかし、貴方はヴェルティローネ・ファミリーのボスであり…しかも最近ご昇進されたばかりの身で───!」
「だからお前に席を譲るっつってんだろーが。アンシェル、お前は俺なんかよりもよっぽどドンに向いてる器だ」
「…………」
「自信持てよ」
喉の奥で笑う養父に、アンシェルは苦虫でも噛み潰したかの様に眉根を寄せる。
やはり、悪い予感は当たっていたのだとアンシェルはつぶさに悟った。
彼は、ヴァイオレット・ブルナーに会いに行くつもりなのだ。
あのヴェルティローネ史上最強で最悪な実験体。
そして、ヴァイオレットの実の娘でもあった少女に。
アンシェルも、彼女がまだファミリーに居た頃に何度もその実力を目撃していた。
鋭い瞳に、絶対的な戦闘センス、技術、存在感。
自身が、一目で敵わないと感じた人物だった。
その少女に、今ヴァレリアスは会いに行こうとしている。
正確には、生き残れるか死ぬかの殺し合いに。
「まぁ、なるようにしかならねぇさ。アリソンに宜しく言っておいてくれや」
「……アイツ、きっと泣きますよ」
「そりゃあ良い、俺の為に泣いてくれるなんてよ。良い娘だなぁ、アイツは」
まるで旅行にでも行くかの様な軽い言葉に軽い声色。
愉快そうに細められる蜂蜜色の瞳は、あの獰猛な銀の双眸と掛け離れて見えた。
そして研究室に立つ狂科学者としてのヴァレリアスとも。
じっとズボンのポケットに入れていた片手を、彼は何気なく胸の裏ポケットへと伸ばす。
何事かとアンシェルが黙って見守っていれば、先程無くなったばかりの筈の煙草がもう一箱現れた。
思わず驚きよりも呆れが先立って半眼になってヴァレリアスを見つめる。
再び煙草に火を付ける自由奔放な養父に、若干安堵を感じて小さく口元を歪めた。
「あまり吸い過ぎると彼女に会う前に体力不足になりますよ」
「馬鹿野郎、冥土の土産にはぴったりじゃねーか」
「…縁起でもない事を言わないで下さい」
「まぁ、確かに一箱も要らねーかもな」
少し考える素振りを見せて、ヴァレリアスは煙のたゆたうそれを咥え、箱からもう一本取り出して胸ポケットへと入れた。
残りのまだ沢山本数の余ったパッケージをアンシェルへと差し出す。
意味が分からず当惑していると、彼はパッケージをアンシェルの胸ポケットに入れその手で肩を叩いた。
煙草を咥えたまま、ヴァレリアスが笑い掛ける。
「やるよ」
「…いえ…僕は、煙草はあまり……」
「だからだよ」
持っておけ、ともう一度笑ってヴァレリアスは言った。
まるでこれが形見だとでも言いたげに。
それが嫌でアンシェルは彼の言葉を拒んだが、結局聞き入れては貰えなかった。
背を向けて、彼は歩き出してしまった。
「───…アンシェル、」
不意に呼ばれた自身の名前に俯き気味だった顔を少し上げる。
相変わらずゆっくりと足を運ばせながら、肩越しにヴァレリアスは振り返った。
煙草の煙を吐き出しながら、片眉と口端を持ち上げるだけの笑み。
悪戯っぽいヴァレリアス独特のその表情は、アンシェルの良く知るもので。
大抵、その笑顔を浮かべる時は言葉の意味の反対の事を言う癖に。
最後まで奔放に去って行こうとする父に、アンシェルは胸中で酷く責めた。
「…必ず、戻って来るよ」
それから、彼の声をもう一度と聞く事はなかった。